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異形のエンテ型戦闘機『震電』

注 この記事は書きかけです。多忙を言い訳に記事を書いていない管理人が、いいかげんばつが悪くなって上げた代物です。α版です。

震電

【エンテ翼】
1930年代、あくまで机上の理論の話であるが、従来の索引式のプロペラ機では700km/hを少し超えた辺りで速度が頭打ちになるということが分かっていた。その主な要因はプロペラブレードの先端が音速を超えると衝撃波が発生し、推進効率が著しく落ちるという現象のためであるが、それより前、つまりブレードが音速を超える前の段階からも生じる、膨大な空気抵抗もまた問題であった。従来の機体ではエンジンを機首に積んでいる以上、どんなに機首を絞りこんでもエンジン直径という限界がある上、プロペラから発される推進のための風も機体を直撃してしまう。そのような牽引式航空機の中でも少しでも空気抵抗を低減しようとしたのが、日本の局地戦闘機雷電(実質的な効果は小さかったが)であり、液冷式エンジン搭載機である。
しかし結果から見れば、実用的な戦闘機として出せた速度はスピットファイアMk.XIVEの720km/h程度が限界であり、日本にいたっては四式戦闘機「疾風」や雷電といった600km/hを少し超える程度の機体しか作ることができなかった。

そこで空気抵抗を低減させるための策として考え出されたのがエンテ型、推進式エンジンを積んだ機体である。エンテ型は「先尾翼型」とも呼ばれ、エンジンを機尾につけ、主翼を後ろに、水平尾翼を前に(先尾翼・カナード)装着するというもので、機首を思いっきり絞れるために空気抵抗を減少させ、またプロペラからの風を機体が受けることがないために、牽引式航空機に比べて飛躍的な速度向上が見込めたのである。ただし、鶴野大尉によれば震電のカナードは尾翼としての機能を果たしていないらしく、それ故すくなくとも震電においては「先尾翼型」ではなく「前翼型」が正しいとしている。
それを近代軍用機として初めて実践したのが1939年初飛行のイタリアの戦闘機であるアンブロシーニSS4、続いて1943年に初飛行したアメリカのカーチスXP-55「アセンダー」である。
アンブロシーニSS4は最高速度539km/hを記録し、当時としてはまずまずの成績ではあったものの、同時期にはBf109やスピットファイアといった戦闘機がそれを上回る速度をマークしていたことも事実であり、エンテ翼の有用性を見出せるようなものではなかった。
一方のアセンダーは628km/hをマークはしたものの、安定性に問題があり試験中に墜落、44年には改善型が完成したもののその頃にはP-47やP-51といったより高速な戦闘機がやはり完成しており、こちらもエンテ型の有用性を見出すことができる存在ではなかった。もっとも、エンジン出力が1280馬力しかなかったことを考えればこの速度を出したのは大健闘と言えないでもない。だが現実としてアメリカは2000馬力級エンジンの開発に成功し、牽引式でもプロペラ機の限界に迫る性能を達成したが故に、わざわざノウハウのないエンテ型の開発を進める意味はほとんどない。

【鶴野正敬大尉とMXY-6】
日本において、エンテ型研究を最も進めていたのは海軍航空技術廠、通称空技廠の飛行機部設計係所属の鶴野正敬技術大尉である。鶴野大尉は昭和14年に東京帝国大学工学部航空学科を卒業し、日本の航空エリート集団である空技廠に任官した経歴を持つ。その後海軍の攻撃機「銀河」の強度計算を担当した後、さらに昭和16年7月からは練習航空隊において戦闘機操縦技術をも習得するという、日本のパイロットエンジニアの草分け的存在である。
鶴野大尉がエンテ翼に注目をし始めたのは昭和14年の秋、空技廠での実習中のことと伝わっている。昭和17年の夏に空技廠に復帰してからはエンテ型の研究にどっぷりと入り込んだらしく、「エンテ型戦闘機なら400ノット」という持論を展開し、一日の勤務時間のうち午前中はパイロットエンジニアとしての各種飛行テストを行い、午後は丸々エンテ型の研究にあてていたと言われている。
研究は周囲にも認められ、昭和18年3月にはエンテ翼の空力特性などを研究するためのモーターグライダー製作の許可をとりつけ、MXY-6と呼ばれるモーターグライダーを2機製造している。
このMXY-6は離陸出力35馬力の空冷水平対向2気筒エンジン「せみ11型」を搭載する、木製骨組に合板と羽布張りの外皮の機体という非常に簡素なものではあったが、並列複座であることを除いてその形状・寸法は震電のそれと似通っており、鶴野大尉の研究がかなりの進度で進んでいたことをうかがわせる。
同年9月に完成したMXY-6は、翌年44年1月、木更津飛行場で鶴野大尉自らも操縦桿を握ってテストを開始した。テストの結果は従来の機体と比べても空力・操縦特性に大きな違いはないというもので、これは将来的にエンテ型の戦闘機を配備した場合、比較的スムーズに従来機からの移行が可能であることを示していた。

【震電開発開始】
1944年、日本はアメリカの反攻によってソロモン海域から撤退し、太平洋戦線での主導をアメリカにほぼ奪われつつあった。マリアナ諸島などの絶対国防圏はまだ失っていないものの米軍の侵攻は時間の問題と考えられていた。また、驚異的な航続距離を持つアメリカの「新型爆撃機」の情報も伝わってきており、近い将来日本上空にも飛来する可能性が存在した。そもそも太平洋戦争開戦以来、B-17やB-24などの中国SB-2など目ではない重爆撃機と交戦し、海軍はこれらを効果的に迎撃する局地戦闘機の開発に力を入れていた。その代表的な機種が「雷電」であり、「紫電」である。他に「閃電」「天雷」といった同様の機種の開発も指示している。しかし雷電は問題が続き、紫電は性能不足、と満足な成果は得られてはいなかった。
そのような時代背景もあり、鶴野大尉が主張する「エンテ型なら400ノット」、重武装を機首に集中配置できることは、特異な機体形状を考慮しても魅力的な謳い文句であったのだろう。あるいはとにかくモノになるなら儲けもの、といった考え方だったのかもしれないが、ともかくも海軍航空本部は44年2月に鶴野大尉に向けエンテ型戦闘機の設計試作を内示し、同年5月には正式に「十八試局地戦闘機『震電』」として試作発令を行っている。これに伴ってエンテ型を「前翼型」と呼称すると定め、いよいよエンテ型戦闘機の本格開発がスタートしたのである。ところで震電が試作発令されたのは昭和19年なのだが、呼称は十八試となっている。これは確かなことは分からないが、おそらくは設計の内示が18年度中に行われたからではないかと思われる。

当然のことながら、戦闘機ともなると鶴野大尉独力の設計など到底不可能であり、空技廠にしても余力を割くことが難しく、三菱・中島・川崎などの主要メーカーも新型戦闘機の生産と開発で手一杯であった。そこで主に「赤とんぼ」こと九三式中間練習機など、練習機の生産を請け負っており余力があった九州飛行機に発注がなされた。九州飛行機では第一設計課を新設し、野尻康三を設計部長にすえて総員140名とし、それに出向として鶴野大尉と広田武夫技手が加わり、これが震電設計開発チームとなった。

震電に対して、海軍から昭和19年6月に提出された要求性能では
・高度8700mにて速度400ノット(約740km/h)以上
・高度8000mまで10分30秒以内の上昇性能
・実用上昇限度12000m以上
となっており、当時の戦闘機水準としては大変高いものになっている。要求性能と実際の性能は大きく違うということを承知の上で、あえて参考までに、傑作局地戦闘機と称される紫電改の性能を列記すると
・高度5600mにおいて594km/h
・高度6000mまで7分22秒
・実用上昇限度10760m
となっている。

なお、当初の案では敵戦闘機との空中戦をも想定して自動空戦フラップ装備なども盛り込まれていたらしいが、最終的には「400ノット以上の高速を第一義、二義的な要求はしないほうがよい」との見地から、日本海軍にしては珍しくシンプルな要求になっている。

その後の開発経過は以下のとおり

昭和19年7月 第一回モックアップ審査
    9月 第二回モックアップ審査
    10月 試作機製作開始 強度試験機・一号機・二号機をほぼ間隔をあけずに平行して製作
       風洞実験
    11月 設計製図終了
       ドイツ、ヘンシェル社のフランツ・ポールが来社 氏の意見を取り入れて量産に適するように改設計

昭和20年 2月 フランツ・ポール再来社 
     3月 強度試験開始
       第一回構造審査
     4月 第二回構造審査
     5月 部分的試験機による、エンジン冷却試験
     6月 一号機完成 15日、福岡県蓆田飛行場に運搬
        機体・エンジンなどに不具合が発見され、改修に一ヶ月
     8月 部分的試験機による、射撃試験
        強度試験終了

【エンジン・プロペラ】
震電のエンジンには三菱「ハ43」42型が選定された。要求性能書の記述では、ハ43-41型特となっており、つまり局地戦闘機「閃電」用に開発されていたハ43-41を改造したもの、ということである。なお3号機以降は過給機を変更して左舷側インテークを除去、出力を向上させたハ43-43型、8号機以降はフルカン接手を排して、潤滑油冷却器を小型化、歯車式一段三速過給機とした43-44型が搭載される予定だったと言われているが、残念ながら1号機完成の時点で終戦となったため、それ以降は実現していない。
ハ43は「金星」空冷復列星形14気筒エンジンを18気筒に改設計するかたちで製造された燃料噴射式のエンジンで、過給機は無段階変速が可能なフルカン接手を採用している。離昇出力は2130馬力、高度8700mでも1660馬力を発揮可能とされていた。また離昇時や戦闘時など、安定した大出力が必要な局面ではメタノールを案内羽根に噴射し、燃料のオクタン価を実質的に上げる構造になっていた。同じ2000馬力エンジンである「ハ45 誉」よりもやや大振りではあるものの、その分信頼性の高いエンジンであった。
当時の海軍では「誉」のほうがよりコンパクト、そして開発自体もかなり進んでいたことから新型戦闘機のエンジンには「誉」を推奨する空気があったのだが、紫電の運用実績から誉は要求性能を発揮するのが大変難しいことが分かっているがためのハ43の選定だと思われる。しかし結果から見れば、ハ43は空襲や地震などの要因によってその開発・生産が大幅に遅れていたため、たとえ震電が制式化されても順調にエンジンの供給が行われていたかどうかは、やや疑問符のつくところである。実際、震電一号機のエンジンも九州飛行機に送られてきた時点で組み立てがされていなかったとされている。

ハ43-42は従来のハ43と比べると、推進式という特殊な搭載方法に対応するためにエンジンとプロペラ軸の間に1mほどの延長軸があり、その先端に減速比0.412のギアを取り付けたタイプである。また、地上運転中でもプロペラからの風によってエンジンが冷却される牽引式と違い、推進式は地上運転中は空気冷却ができないために強制冷却ファンが追加されている。また飛行中もそのままでは冷却がほとんどできないため、震電は胴体両脇に空気取入口を設置し、そこからダクトを通してエンジンの上下に均一に空気を当てるという方式をとっている。いかんせん全力飛行をすることなく終戦を迎えてしまったために、この冷却問題が試作1号機の段階で既に解決されていたかどうかは不明だが、エンジンオイルの温度が通常よりも上昇しやすい傾向ではあったらしく、その後の改良が必要となった可能性も高い。もっとも、試作1号機で完璧なものを作れるなどということはほぼあり得ないことであるので、責めるにはあたらない。
また機体への取り付けも、胴体から取付架を伸ばしてそこに固定するのではなく、鶴野大尉の考案によって主翼の3本の桁にV字型の脚で固定するという手法を採用している。この固定法によって、延長軸のたわみや振動も同時に抑制するという機能も有している。
エンジンの排気は45%が油冷却に、36%が速度向上を狙ったロケット排気、19%がエンジンカウル内の誘導冷却に使用される。

さらに、空技廠からは将来的なジェットエンジン換装も視野に入れた設計をするようにとの通達もあった。確かに推進式である震電は牽引式の機体に比べればジェットエンジンへの換装は用意であろうが、もちろんまったく違う方式のエンジンへの換装というものがすんなりといくはずもない。実際にジェットエンジンを搭載することになれば、胴体後部を中心としたかなりの改設計が必要になったであろう。

プロペラは試作一号機では直径3.4mの6枚羽根、住友金属製VDM式恒速プロペラが採用されている。これは直径を増やすことなく推進効率の向上を狙ったもので、ピッチ変更には油圧を用いる。トルクを消すための二重反転プロペラも考慮されたものの、重量が増大して信頼性も低下、そして量産性に乏しいとされて不採用となった。結果的には、試験飛行にてこのトルクが極めて大きく、補助翼でも修正できないことが分かるのだが、トルクは機体改修で何とかなるのに対して、戦争後期の日本にとって二重反転プロペラを量産し、まともに運用することなど不可能に近かったであろうから、この判断は賢明と言える。

パイロット脱出時にはこのプロペラへの巻き込みを防ぐために、減速機のついているボルトを火薬で爆破し、プロペラを吹き飛ばすことになっていた。計画要求書にも「極めて簡単、かつ確実に離脱できるように考慮せよ」という文言があり、裏を返せば推進式の機体からの脱出それだけ危険が伴うということを如実にあらわしている。


【機体構造】
震電の胴体は厳密には操縦席後方の防火壁までであり、それより後ろはエンジンカウルであるのだが、ここでは特別な指定がない場合、従来の認識どおり機種から機尾までを一貫して「胴体」と呼ぶことにする。震電の内部構造を見てみると、機首から機尾までギッシリと装置が詰まっており、余白といえる部分がほとんどない。これは必然的に外部からのメンテナンスパネルを増やすことになり、開放可能な部分を増やすということは強度的な問題が発生することにつながる。そのため、従来の機体で取られてきた通常のセミモノコック構造では強度に不安があったらしく、震電は特殊な構造を採用している。
まず機体の外板自体を零式艦上戦闘機のそれの2倍強にあたる、厚さ1.2mmのものにして強度を高めるとともに、その裏側にプレス成形した板格子(グリッド)を張り巡らしている。さらなる負荷は縦方向に通してある縦通材でうけとめるようになっている。
胴体の骨組みは1本の縦通材と14本の肋材で構成されており、肋材は操縦席より前に集中して配置されており、エンジン付近には一本も入っていない。また、大型の30mm機関砲4門を搭載するために、機首の上半分には肋材が通っておらず、下半分だけに存在する。胴体内燃料タンクは操縦席下に設置されており、400lの燃料を搭載できる。
機体そのものの強度もそうであるが、防弾装備も震電は日本機としては異例とも言える厚いものになっている。コクピットには70mmの防弾ガラスが張られ、機銃弾を搭載するスペースの前に存在する8番肋材が16mmの防弾鋼板となっている。さらに操縦席の下と主翼内に存在する燃料タンクにはゴム皮膜はもちろんのこと自動消火装置装備となっている。これはB-17からB-29まで、戦略爆撃機の火力に防弾装備の不十分な戦闘機が悩まされ続けたことに対応したものだろう。

次に翼であるが、まずは震電最大の特徴である前翼について述べる。
前述の通り、鶴野大尉はこの前翼は尾翼としての働きをしていないと語っていつ。これは、通常の水平尾翼の目的が機体安定であり水平飛行時は揚力をほとんど発生させないのに対して、この前翼が主翼以上の揚力係数で揚力を発生させるが故である。
揚力を発生させるということは、それだけ空力的な影響に敏感ということであり、取り付け位置に関しては慎重な設計が成されたと言われている。前翼は桁2本を通した全金属製翼で、引込式スロットを前縁に、親子フラップ兼昇降舵を後縁に配置する複雑な仕組みになっている。その一方で厚みは60mm強であり、その内部に前述のような複雑な機構と操作系統を収めきるのには大きな労苦を伴ったであろうことが想像される。

主翼は左右一体型で、桁3本にリブ6本、胴体同様に外板は厚く、そして裏から板格子をはめた頑強な構造になっている。一方で、縦通材は廃されている。主翼のちょうど真ん中ほどにあたる3番リブを境にして、胴体側にはスプリット式フラップ、翼端側にはフリーズ式補助翼が配置されている。これは前翼のフラップはスリットに比べるとシンプルで単純な仕組みである。
さらにフラップは3番リブから520mm胴体側の2番リブを境に二分されており、その間には側翼、牽引式の機体では垂直尾翼兼方向舵の役目にあたる翼が取り付けられている。この側翼は左右の主翼両方に取り付けられている。
主翼は前縁で20度の後退角がつけられている。高速機らしさを匂わせる形状だが、ドイツのジェット戦闘機Me262の後退翼も重心の関係で無理やり主翼形状を変更した故という例があるように、後退翼がもたらす効果の研究が十分に進んでいなかった当時、この後退翼が亜音速域での空力効果を狙ってのことなのかは定かではない。ただし、断面が層流翼となっているのは明らかに高速機であることを狙ってのことであろう。

主翼内には燃料タンクも設置され、前桁と主桁の間の1番リブから2番リブまでが200リットル燃料タンク、2番リブから1260mm翼端側の4番リブまでが75リットル水メタノールタンクになっている。そのため、右翼・左翼あわせて主翼内燃料は400リットル、水メタノールは150リットルということになる。なお、この水メタノールは過給機搭載エンジンに使用するもので、過給機にて断熱圧縮した吸気に水を噴射することで気化熱が吸気を冷却、酸素密度を高めて結果的にエンジン出力向上につながるというものである。本来なら水だけでいいのだが、航空機の場合水だけでは凍結してしまう恐れがあるので、それを防止するためにメタノールが混ぜられるのが一般的である。


【降着装置】
震電の降着装置は、推進式という特異な形態から現代のジェット戦闘機のような前輪式になっている。降着装置は数ある飛行機の部品の中でもかなり重量とスペースを食う存在であり、設計側としては可能な限り短く、軽くしたいのが常だが、側翼がとプロペラが下に伸びている震電はそういうわけにもいかなかった。結果的に震電の主脚は車軸から脚柱上端まで1.8mというものになり、主脚と補助脚(前の足)あわせた重量は260kg、全自重の7%が降着装置に費やされている。
被弾などの原因で開閉装置が故障した時を想定して、補助脚は前方引き込み式を採用しており、こうすることで脚が最後まで下りなくなっても風圧によって開かせることがある程度可能なようになっている。

【武装】
震電の武装は30mm機銃4門という、単発機としては空前の火力を誇っている。また、実戦時にも搭載していくかどうかは不明だが機首先端に射撃訓練用7.9mm機銃2門または写真銃が装備されている。30mm機銃は十七試三十粍機銃一型乙と計画書には書いてあり、これは後に五式三十粍固定機銃として制式採用される。この機銃の開発経緯については、『秋水』のページに既に書いたため、ここでは引用に少々修正を加えるにとどめておく。
以下の引用文はあくまで秋水のことについて書かれたものであり、必ずしも震電の説明にはあたらないことをご了承いただきたい。秋水に搭載された『五式三十粍固定機銃一型甲』と震電に搭載された『五式三十粍固定機銃一型乙』ではモデルが違うため、寸法や各性能に様々な違いが存在する。なので、説明文に先立ってその違いを表にしてあらわした。上が秋水搭載のもので、引用文中にも出てくる数字である。下が、震電搭載のものなので、誤解のないよう注意していただきたい。

五式三十粍機銃のモデルによる性能の差違
名称全長重量初速発射速度弾薬包重量
五式三十粍一型甲2218mm80kg750m/s350発/分630g
五式三十粍機銃一型乙2092mm66kg760m/s500発/分660g


引用開始
『五式三十粍固定機銃一型は、大型機撃墜を目的とし、戦闘機に搭載することを前提にしてできうる限りコンパクトにまとめる様に設計された国産機銃である。
1942年(昭和17年)3月に空技支廠に対し大口径機銃研究についての照会があった。この際に25mm、30mm、40mmといった様々な口径の機銃が新開発の候補に挙げられ、8月の要求性能決定までに何回もこれに関する会議が設けられた。
それまでの間に6月には30mmにすることが決定して一枝支廠で銃身と弾薬包の設計・試作が行われ、要求性能が出る前から一枝支廠援助のもと日本特殊鋼株式会社に十七試30mm機銃の名で設計と試作を開始させた。8月に要求性能が決定して届き、それをもとに開発を進め1943年(昭和18年)7月に試作1号が完成した。1944年(昭和19年)には基礎地上試験を全て修了し、同社による増加試作銃を使用しての空中発射・耐寒試験などが1945年(昭和20年)3月まで行われ、同年5月に正式採用となった。
全長2218mm、重量80kg、初速750m/s、発射速度350発/mで弾薬は弾薬包重量630g、弾頭重量350g、炸薬量37g。ここから分かるように発射速度が他の同口径機銃に比べ低い。Me163に搭載されたMk108は全長105cm、重量60kg、発射速度600発/mとさらにコンパクトではあるが初速は400~500m/sと拳銃弾並、使用する弾丸も30x90RBの短いものである。同じ30mmなのにも関わらずMe163搭載弾数が(秋水と比べて)多いのはこのためである。ドイツの初速の捨て方はもう開き直った感さえし、その開き直りゆえその他の性能は満足のいくものになっているし、信頼性もそこそこある。しかし5式30mm機銃は従来の性能のままでコンパクトにしようとしたためにどうしても皺寄せがあり、それが信頼性低下(特に給弾機構)に繋がった。だが30mmの大口径は当ればB-29相手にも大きな破壊力を発揮できたのは間違いないだろう。事実月光に搭載した本銃での撃墜記録もある。
量産型銃は全試験が終わる前から既に生産されており、量産1号の完成は1944年(昭和19年)12月である。これらは日本製鋼所横浜工場と豊川海軍工廠で主に生産されている。肝心の日本特殊鋼株式会社はと言えば、爆撃で工場が破壊され、増加試作を作ったところで脱落していた。最終的には2000門強の5式30mm機銃が生産されたものと見られている。
零式艦上戦闘機後継である烈風に搭載されていたのが、この銃の最も有名なところであるが、他にも夜間戦闘機月光に個人で搭載し戦果をあげ、テスト中だったものや予定だったもの、個人で搭載したものまで含めれば雷電・天雷・銀河・彩雲・震電・電光など日本海軍最後の飛行機らに搭載されている。しかし小さなスペースに機構を押し込んだために給弾機構などに無理があって決して信頼性は高くなかった。』
引用終わり

ともかくも、30mm機銃4門という重火力で、しかもエンテ式の恩恵によって機首に集中配置することに成功、照準の容易さと弾道特性の改良を達成した武装は非常に強力なものであったことに間違いはない。各機銃に60発ずつ、計240発の弾薬を搭載している。この4門と弾倉だけでもスペースを非常に食うのだが、さらに震電は空薬莢を機外に排出した場合プロペラを破損する恐れ大という理由で全て機内に収容することになっている。銃1門にそれぞれ空薬莢いれを装備しているため、機首上半分のほとんどを武装関連で占めてしまっている。

【初飛行】
1945年6月中旬には、試作開始から13ヶ月という早さで試作一号機が完成した。福岡県雑餉隈(ざっしょのくま)工場で完成したこの試作機は、早速隣接した当時陸軍管轄の蓆田飛行場、現福岡国際空港に運び込まれた。福岡県人たる管理人にとっては、親しみ深いあの飛行場で震電が飛んだと考えると非常に感慨深いものがある。

しかし急ピッチの作業が祟ったのか、エンジンにも機体にも不具合が散見されたようで、この改修のため一ヶ月間は格納庫に篭ることになってしまった。7月中旬にはようやく海軍の完成審査をクリアし、下旬に幾度かの地上滑走試験を経て、遂に飛行計画が承認されることになった。この地上滑走試験中に、機首上げ姿勢を強くとりすぎてプロペラが地面を叩いてしまい破損してしまったため、試作二号機用のそれと交換し、さらに以降同じことが起こらないように尾翼下端に、練習作業機「白菊」からとってきた車輪が追加された。一号機は応急的なものだったが、二号機以降はより洗練された設計にする予定だったようだ。

初飛行は1945年8月3日、パイロットは九州飛行機所属の宮石義喬操縦士が担当し、ダミー機銃二挺と弾薬に見立てた錘、胴体内燃料タンク380l(38lとする資料もあり)、メタノール80l、潤滑油80lを搭載した状態で行われた。
エンジン2700回転/分の状況で、105ノットに達したところで離陸を行ったと記録されており、その離陸性能は良好なものだったようである。飛行自体はギアを収納せずに、15分間低速飛行して着陸する簡単なものだったが、確かに奇妙な形の戦闘機は空に上がったのであった。
飛行結果から、エンジンのトルクが大きく右に傾きがちだということが判明した。これはその後の試験飛行でも同じことが報告されており、時間さえあれば改修されていったことだろう。

その後6日、8日にも試験飛行が同じコンディションで行われた。今度は機首が下がりがちであることが報告されている。二回目時には上昇中に昇降舵をいっぱいに上げても機首がさがって行ったらしく、着陸時には機首を上げようとしたところ急に上がりすぎ、操縦桿を前に目いっぱい倒して着陸したらしい。三回目には水平飛行中にフラップを出したところ機首が下がり始め、昇降舵いっぱいでようやく水平飛行にもっていけたようだ。

これらの操縦特性の欠陥は試作一号機にはままあることであり(むしろ無い方が極めて珍しい)、震電の能力の低さを示すものではない。だがこれからも数多くの改修が必要であったことは確かなようだ。試作機とはそういうものであって、なんら問題はないのであるが、実用化にはもっと長い時間が必要になっただろう。

10日以降には念願の全力飛行の計画が立てられたが、その前にエンジンが故障、製造元の三菱重工に連絡を取っている段階で8月15日、すなわち終戦を迎え、震電の開発計画も終了となってしまった。

この時点で震電の機体は試験飛行中の試作一号機の他に、製造中の二号機と三号機が存在していたが、そのうち一号機はアメリカ軍に接収されることになる。二号機と三号機のどちらか一機は国内で焼却処分とされ、もう一機の行方は分かっていない。一説にはアメリカに移送中に何らかの問題が発生し、海中投棄となったと言われているが、確証はない。
現在接収された一号機は分解されて、アメリカのスミソニアン博物館の倉庫に保管されている状態にある。保存状態はかなり悪いそうだが、一日本機ファンとして、飛行可能状態とはいかないまでもせめて博物館に展示できる程度にレストアをしてもらいたいものだ。


総じて、震電は非常に革新的な設計と機構を盛り込んだ意欲作であった。それ故、試験飛行でも問題が散見されたように今後改修していかなければならない箇所は多数あっただろうが、終戦間際のつらい時期にノウハウのない新型戦闘機を作り、飛ばした技術者には頭が下がる思いである。
後代の架空戦記で描かれるような高性能が本当に発揮できたのか、またカタログスペックで実現できても当時の日本の兵站状態でどこまで性能を発揮できたのかは疑問が残るところであるが、震電は間違いなく、飛行機製作の夢を伝えた航空機であるだろう。


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